生粋の体育会女子がニュージーランドに住む話

生粋の体育会系女子がニュージーランドに住む話

ニュージーランドで生きると決めたのだ

生粋の体育会系女子が

ニュージーランドに住む話

〜どうせ国際恋愛とかもしちゃってんでしょ〜

ありのままを表現することの難しさ

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私は自分を表現するのが好きです。

しないと窒息します。

 

そんな私、ブログ何ヶ月も更新できませんでした。Twitterも満足に投稿できてません。書ききれなかった投稿たちが山積みになっています。フラストレーションが積もるばかりの毎日。

 

ここ最近そんな感じの私がずっと考えている、表現するって何?について書きたいと思います。

 

▼表現できない

表現するの、私は好きなのに苦手です。

絵であり、ダンスであり、言葉であり。

 

好きだからやっていても、ほとんどの場合はうまく表現できなかったり、頭の中に浮かぶのに表に出てきません。そんな時は、誰にも理解してもらえないような気がして苦しい、もどかしい。

 

声帯を取ったかのように、口は動かしているのに声にならない。

英語を話し始めた時のように、意見があるのにうまく形にできない。

 

だから、布団に籠もります。

「今の自分にはそんな能力ないんだ」「そんなんしなくても問題なく地球は回り続けるんだよ、諦めな」と言い聞かせる。

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でもそんなに諦めがいい性格でもなく、籠もっていても何か変わるわけではないので、しばらくすると出てきます。

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それから考える。

「詰まってるものはなんだ?」

 

この詰まりをしばらくツンツンし続けると、何かの拍子に濁流のように溢れ出てきます。誰かの言葉だったり、見たものだったり、音楽だったり、映画だったり、きっかけは様々。布団の中でないことは確かです。

 

下水管工事みたいに、茶色く濁ったドロッドロの私の『思い』や『感情』や『意見』みたいなものが流れ出てくる。一度流れ始めたら自分の意思では止められません。数時間で消えることもあれば、数週間から数ヶ月続くこともあります。

 

急いでかき集めては、ご飯を食べるのも忘れて言葉を紡ぎ、絵を描き、何かの形にします。そうしてキレイになったものが出来上がる。

 

濁流をろ過して透明の水にする。

 

私にとって、表現するってこんな感じ。

魔法が上手に使えなかったエルサ(アナと雪の女王)みたいだなあと思う。いいものは持ってんだけどなあ(自分で言う)。使い方がいまいち分かってません。

 

▼自分は誤魔化せない

いくら周りから個性的だと言われ、自分の意思のままに生きていると言われても、自分のことは誤魔化せないなあと感じることがあります。

 

私は自分に嘘をついている。

自分の嘘に縛られている。

 

自分のことをありのまま表現しているように見えて、人にこう思って欲しい自分を表現してしまうことがよくあるんです。

 

「私にこんなことを言って欲しいんだろうな」と思って発言したり、「こういう私だと思ってるだろうな」と思って行動したり。

 

学校や職場でも、先生や上司に対して「こういう答えが欲しいんだろうな」とか「これを提出したら気にいるだろうな」を探ってきました。気に入られ方を探っていたし、この『人が欲しいことを察する能力』は、いい成績を取ったり、賞を取ったり、いい仕事をもらったり、スポーツで勝つことにも役立ちました。

 

でも、私が表現したい私は、誰かの理想でもなく、何かの基準でもない『私』です。

 

見栄を張るための絵を描いたところで、お手本みたいな文章を書いたところで、誰かを真似たような写真を撮ったところで、『私』は表現できていません。

 

他人の真似事ばかりしていては、人と自分との区別もつかなくなる。人に好かれることばかり追求していては、大衆に埋もれていきます。私の代わりになれる人がたくさん出てくる。私じゃなくてもよくなる。

 

そういう嘘やモヤモヤをほっといておくと、周りにホコリが溜まって大きくなって、私の身体のどこかで詰まり始めるんです。

 

自分に嘘をつき続けた時に自問する『私らしさって何?』でさらに苦しくなり、窒息します。

苦しくしているのは私自身。

 

▼その表現に意味はあるか?

ニュージーランドで個性を尊重する文化の中で暮らし始めてから、『私』のあり方について考えています。私は好かれようとして生きてきたんだなと気付く。

 

しかもそれは仕事や学校だけにとどまらず、自分の幹の部分を表現するアートや文章にまで影響するようになってしまった。癖になってしまっていた。

 

SNSを見れば、共感や賛同を得る目的の投稿が溢れます。私もその世界のど真ん中に埋まっている。今の世の中の流れから一歩外に出る機会をつくらないと、『私』が無くなるような気がする。

 

みんなに好かれようと愛嬌を振りまくマスコットみたいな生き方をして、何になる?

 

嫌われてもいい、とは違うの。

 

ただ、ズブズブとマスコット化させている私というキャラクターに気がついては、我に返り、一歩下がり、また息ができる安堵で泣いている。まだ、息が、できる。

 

私が『私』を表現できないのなら、その表現に、その生き方に、どんな意味があるのでしょうか。ありのままの自分を見せることがこんなに難しくなったのは、いつからだろう。